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2007年09月30日

雨天順延

今日は町内の運動会の日でした。
いや、その日のはずでした。

朝からの雨で「雨天順延」。
私は町内の体育振興係でして、事前に他の係の人と手分けして、
選手の確保、お弁当の申し込み、テントの手配といった町内のことから、
当日の運動会の賞品の準備や、グランドのセッティング、道具の確認など、
本部の仕事にもかりだされます。

必要なことはほとんど雑務的なことなので、それ自体に魅力はありませんが、
広い町内で一緒に暮らしている人の顔が見えるというのは、
やはり安心感や愛着がわいてくるものだなぁと感じます。

もともとはあまりそんなふうなことは気にしない(と自分では思っていた)のですが、
いや、むしろ面倒なことがふえるなぁ、ぐらいだったのですが、
少し足を踏み込むと以外と実感するものです。

でも、これが行き過ぎると、自分も廻りもとたんに迷惑になる。

距離感が大切。
それは一見すると醒めてる様ですが、
いざとなればお互い頼りになると思えることが大切で、
それだけでも結構あったかいものです。

なんだか幼稚な感想文みたいになりましたが、
心の隅の方では
「今日で全部終わらせたかったのになぁ」
なんて悪魔の呟きも聞こえてきます。

いやホント、大変なんですよ、意外と。
  


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2007年09月29日

解釈

最近アメリカのアフガニスタンで行っている「対テロ戦争」を
国連が認めているとか言ってる人がいません?

あまりいいかげんなことも言えませんが、あの戦争を始めた時って、
国連としてやろうと言ってたのに、アメリカが「これはアメリカの戦争だ」と言って
単独で空爆を始めたんじゃなかったのかなぁ。

うろ覚えですけど、たしかそんな感じ、覚えてません?
(覚えてる!という方がおられたら教えて下さい)
今となってはもう、どうでも良い事なのかな?
でもなんかちょっと引っかかりません?

もともと対テロの手段がなんで「戦争」なんてリスクの大きい行動になって
しまうのかがよくわかりませんが、日本だって国連に加盟しているわけだし、
皆で決めた事ならやるのはいいけど(あれ?ちょっと他人事みたいな書き方ですね)、
単純に「自衛権の行使」でよその国に爆弾おとしたらそりゃちょっとやりすぎ、
そんなふうなこと思いません?

まぁ色んな意見があるでしょうからあまり深くは入りませんが、
一度今話題の「国連決議」の訳文を読んでみるのもいいのでは?
短い文章です。
戦争していいって書いてありますか?書いてませんか?

解釈ってむずかしいですね。

(たたずむ。photo by うるめもどき)
  


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2007年09月28日

大陸棚

トヨタのランドクルーザー、中国での名前はなんだか知っていますか?
答えは「陸地巡洋艦」と言うそうです。発音はわかりませんけど(笑)。

では、さらにマニアな問題。
中国が東シナ海で、日本の主張する排他的経済水域の境界線ギリギリで掘っている
三つのガス田の名前はなんでしょう?
知らないですよね。
「春暁」「天外天」「断橋」と言うそうです。
私も知りませんでした。

でもなぜか日本はこの三つに別の名前をつけています。
「白樺」「樫」「楠」だそうです。

なんで?そこにはどんな意図があるのか、ないのか。
よくわかりませんが、せっかくなので例の東シナ海のガス田問題のお勉強をひとつ。

この問題でよく言われているのは、日本と中国が主張する境界線の違いについて。

日本はお互いの沿岸からの中間線を主張しています。

これは国際条約で定められた排他的経済水域(200カイリですね)が、
お互いに重なっちゃうから半分にしようよ、というもので、
国際慣行として実際にこういう例があります。

では中国は、それを超えたところまで主張するんだから無茶苦茶かというと、そうでもない。

同じ国際条約で、自分の国の海底にある「大陸棚」(ここに石油やガスがあるのですが)が
200カイリを超えるなら、350カイリまで開発する権利があると定められていますから、
それをそのまま主張している。

実際には沖縄列島のそばに「沖縄トラフ」という深い溝があって、
学術的にはそこまでが中国の大陸棚と認められるとか、
そんなふうなことも言われています。

どちらも「それなりに」根拠があるんですね。

ちなみに、斜めに掘って、実は日本側から吸い上げてるんじゃないか、
なんて心配は無用です。
深度3000メートルあたりを、境界から5キロもはなれたところから掘る技術は、
日本の技術でも前例がないそうです。  


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2007年09月27日

ペレット

森林バイオマスって聞いた事ありますか?

私は数ヶ月前に初めて知りました。
間伐材や製材屑などのゴミとなってしまうものを、
エネルギーとして利用可能にしたもの。
薪や炭がなじみ深いものですが、注目されているものに「ペレット」があります。

ペレットとは、ゴミとなって捨てられてしまう木材を乾燥、圧縮加工して、
固形燃料としたものです。

実は昨日、「木質ペレット勉強会」なるものに参加してきました。
京都学園大学の教授の話がとてもおもしろかったのですが、
山から切り出される木の内、建材やその他の商品として使われるのは、
その工程や品質上、ほんの少しで、ほとんどがゴミとなってしまうと聞くと、
なるほどペレットにしたらいいじゃない、と単純に思います。

が、話はそれほど単純じゃない。
ペレットにするには必ず「乾燥」という工程が必要とのこと。
海外では、それ用の倉庫でのんびり半年〜1年くらい乾くのを待つそうですが、
日本ではその作業を、むりやり熱を加えてすましがち。
この熱を加えるエネルギーのことを考えると、
本来節約や代替という視点に立っているはずが、何をしているのかわからないとか、
そんなふうなこともわかりました。

手っ取り早いのは、製材所ではなく、プレカット工場なんかで出る廃材を利用すれば、
もともと乾いているので比較的コストが抑えられるとのことでした。

ペレットだけを考えるとこれでもいいのですが、国内産の木材の需要が減り、
日本の森や林が荒れているのを、健全化しようとする視点まで含めると、
プレカット工場では輸入した木材によるペレットの割合が多くをしめてしまうわけだから、
日本の森や、林の健全化に対してはあまり決定打にはなりそうもないですね。

コスト面を割り切ってでも、国内自給率を上げようなんて精神はなかなか根付かない
だろうし、まだまだ前途多難ということでしょうか?
  


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2007年09月26日

どちらも愛

「ナチュラル・ボーン・キラーズ」って映画、知ってます?
オリヴァー・ストーン監督で、男女の愛と殺戮を描いた映画です。

「描いた」なんて書くと、なんだか神妙な感じですが、
一見すると、ただの派手なアクションものです。
ただ、そこはオリヴァー・ストーンでして、見せ方が「ある意味」美しい。

今ウィキペディアを見たら、欧米各国で年齢制限公開や上映禁止になってたみたいですが
(知りませんでした)、この映画、そういう表面的なところはさておき、
結構深い映画なのではと私は思っています。

主人公の男女は愛し合い、同時に、人間が持ってしまっている暴力性に突き動かされて、
自分たち以外の人間を殺戮する。
それを止めるものが愛であることもわかっているし、
逆に押し進めるものも愛であることを知っている。
主人公はその矛盾を意識しませんが、「人間的」なものも感じている。

他にも色んなことの暗喩であろう伏線があるのですが、
あまりだらだら書いてもなんですから、これくらいにしておきます。

これと同じテーマをフランス映画なんかでやると、きっと退屈なんだろうなとか、
そんなふうなことを思うのですが、アメリカ映画だからこそ、みたいなところが、
良いようにも、悪いようにも働いている感じはします。

まぁおヒマな方は観てみて下さい。
でも今のところ上記のような感想に同意してくれたのは妻以外におりません。
なのであまり期待しないでね。
  


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2007年09月25日

逆もダメ

昔も今も変わらないこと、すっかり変わってしまったこと。
どちらも沢山あるんでしょうけど、これは変わってない方です。

「この世の物ごとのなかで、みずからの力に基づかない権力者の名声ほど、
 もろく、当てにならないものはない」
(タキトゥス「年代記」)

まぁ言ってる事は「そうですね」としか言いようがないようなことですが、
これが書かれたのがローマ帝の頃だそうですから、そっちの方が驚きですね。

えー、その頃からぜんぜん進歩してないの?
思わずそんなふうなことを呟いてしまいません?

この言葉をさらにマキャヴェッリが「君主論」で引用するわけですが、
それが書かれたのが1500年ごろ。
まさか2007年になってもまだ使われるなんて、
さすがに思ってもみなかったんじゃないでしょうか。

でもね、だからってこの言葉の意味を逆にして、

「この世で当てになるのは、みずからの力に基づかない権力者の名声である」

なんてことになってもダメなんですけど。

え?ってことは、永遠にこのままで良いってこと?
てへへ、変わらなくてもいいことだってあるみたいですね。

(岡崎あたりで。これって変わってないの?)
  


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2007年09月24日

国民投票

2007年5月に可決・成立した「国民投票法」(憲法改正手続法)には、
最低投票率の規定も無いって知ってました?

なんだか変ですよね。
憲法改正なんて大きなことを決めるのに、
ほんの一握りの人の投票でも決まっちゃうなんてね。

「だったら、皆、ちゃんと投票にいけばいいやん」
って言ったらたしかにそうだけど、
なんというか、「安全装置がない」みたいな感じしません?

だいたいYes/Noで決められないような内容なんかはどうなるの?
質問はちゃんとしたものになるのでしょうか?

こんなことも言われています。

本来、賛成、反対の意見が平等に国民に提示される必要があるわけですが、
広報段階で国会内の勢力が反映されてしまうため、国民投票が中立的な立場から
行われなくなる危険性があるとか、そんなふうなこと。

これってちょっと露骨すぎますね。
でもまぁ今から言っても遅い。
2010年5月には施行されるそうです。

(なんだかねぇ)

  


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2007年09月23日

毒物宅配

もう何年も前のことだと思いますが、こんな事件を覚えていますか?
「宅配便で送られて来た青酸カリを飲んで、女性が自殺」

HPで自殺願望者の「相談」(どういった内容かわかりませんが)を受けていた男性が、
口座に代金を振り込んだ相手に、実際に青酸カリを郵送し、
上記の女性はそれを飲んで自殺したというものです。

加害者、被害者の区別が、ある意味わかりにくいのですが、
自殺が目的とわかっていて青酸カリを送ったのなら、
どちらが加害者なのかが、ちょっと見えてきます。

けれど、代金を振り込んだ男女7人の内、
実際にその青酸カリで自殺したのは上記の女性1人のみでした。

ある女性は飲もうとした瞬間、父に止められ、一命をとりとめた。
ある男性にも毒が送られていたが、母が本人に渡さず、保管していた。
そして、ある主婦は、「生きるための『お守り』」として大事にもっていたという。
(ドクター・キリコの「誤配」より)

手紙には必ず「誤配」という可能性がつきまといます。
けれど、この事件の場合、一体どれが「誤配」だったのか。
また、HPで行われていた「相談」とは何だったのか。
どのような言葉が交わされていたのか、そんなふうなことを考えてしまいます。

ソクラテスはこんなことも言っているそうです。
「書かれた言葉は、それを理解する人々のところであろうとも、まったく不適当な
 人々のところであろうとも、おかまいなしに転々とめぐり歩く」

(平安神宮の鳥居)
  


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2007年09月22日

ユトリロ

このブログの少し前の記事で、
私は絵を見る時、あまり略歴や解説を見ないなんて書きましたが、
知れば知ったでおもしろいものですね。

たまたまユトリロを紹介する文章を読む機会がありました。

ユトリロは、ルノアールやドガのモデルをしていたという女性を母に産まれます。
父親は不詳。後にミゲル・ユトリロという男性のもとに入籍して、
そこで初めてユトリロという姓になります。
17歳でアルコール依存症になり、更生の一環として母に絵を描く事を勧められたことから、
画家としての道を歩み始めます。

主に建物や町並みを描きますが、屋外での写生はしなかったとのこと。
絵はがきや写真をもとに絵を描いたといわれているとか、そんなふうなこと。

そう言えば、絵に生活感がないし、なんだか憂鬱そうですものね。
静かでさみしそう。
絵を観る深さがここにあるのかもしれませんね。

いや、待てよ。
でもね、これを知ったら今度からこんなふうにしか観れなくなってしまったような。

え?それは私の能力の問題?
うーむ。それならばやはり、知らない方が・・・。
いや、うーん、・・・深い。

(白川。三条通りあたり photo by うるめもどき)
  


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2007年09月21日

アンテナ

ケータイのアンテナ3本立ってますか?

ケータイにかかってくるはずの電話がかかってこない。
私のケータイのアンテナ表示は7段階で、7つとも表示されている。
おかしいなと思ってかけてみると「接続エラー」と表示される。
原因がわからないので、他の人にかけてみると「接続エラー」。

これはどーも私の電話が悪いようだ。

普段ならほうっておくのですが、大事な連絡だけに早く復旧したい。
ソフトバンクのHPを開いて、なかば隠しぎみに載せてある番号を見つけ、
家の電話でかけてみると、これでもかと音声アナウンスで廻されて、
ようやく担当者につながる。

原因は今いるエリアでの工事のためとか、そんなふうなこと。
「全ての発着が出来ない状態になっております」
あまりにぬけぬけというものだから、どうしてダイレクトメールかなんかで教えて
くれなかったのかと聞くと、
「ホームページに出ていますので」
だって。
じゃあなにか?毎朝電話がつながるかソフトバンクのHPを見ろってか?
言ってもしょうがないので、こちらの番号を伝え、かけてもらうことに。
すると、どうしたことか、ちゃんとかかってくる!

「たった今工事が終わったということですか?」
「そうでしょう」
この会話をケータイで交わし、なぜかやりきれない思いで電話を切ったのでした。

ここまでは、よくある話。
問題はここから。

最後にケータイで話した時、アンテナ表示は半分くらいに減っていた。
そう言えば、たまにそれくらいになってる時がありました。
逆にそれが普通の状態かもしれない。
工事が終わったと思われる直後も、しばらくは「アンテナ半分」。
しかし、およそ10分後、アンテナ表示は逆に「満タン」表示。
「あれ?」
不信に思ってかけみると「接続エラー」。
どうもまだ工事中らしい。

つまり、からくりはこうです。
工事でつながらない状況が出来ても、ユーザーには積極的に伝えず、その間、
あたかも利用可能であることを見せかけるために、
なんらかの方法で、アンテナ表示は「満タン」にさせる。

この仮説、どうですか?
あなたのケータイ、アンテナ3本立ってますか?
そして、ホントに「つながりますか?」

(ソフトバンクやめてauにしよっかな。)
  


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2007年09月20日

テリヤキ

どこのテリヤキバーガーが好きですか?
マクドナルド?ロッテリア?モスバーガー?

え?テリヤキは嫌い?
実は私もあまり食べません。
じゃあ、どこのチーズバーガーが好きですか?
マクドナルド?ロッテリア?モスバーガー?

チーズバーガーならどこも同じでしょなんて思っていると、皆さん以外と、
いや、あそこがいい、あそこはダメ、とか詳しいですね。

私はあえていうと、モスバーガーが好き。
いや、味がどうのじゃなくて、どこもおいしいのですが、
こんなことを何かで読みました。

モスバーガーは純粋な国内資本。
以前モスバーガーが、ポテトに北海道産を使っているのはうちだけで、
他はみんな輸入ものだという広告を打ったら、業界団体から圧力を受けたとか、
そんなふうなこと。

スローフードを志す方はまだおられますか?
ファーストフードでスローフードなんてちょっと変な感じですけど(笑)、
どうせならモスバーガーもいいんじゃない?

(でもモスって不便なところにあるんだよなぁ。しょうがないか。)

  


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2007年09月19日

「脳」

CPUはアタマ。
メモリーはテーブルの広さ。
ハードディスクは引出しの数。

パソコンが普及しはじめた頃、まったくの無知だった私に、パソコンとは何ぞや?を
説明してくれたときの姉の言葉です。(いや、父だったかな?いや、二人がかりか?)

当時いろんなところで来るべき電子社会について論じられていたみたいですが、
CPUとハードディスクを合わせて、人の「脳」に例えられているものがありました。

つまり、ハードディスクという「記憶」と「判断」するCPUが、
人にそっくりだというのです。
当時、今と変わらず(?)純朴だった私は、これを疑う術も無く、
人ってすごいものをつくるなぁと感動していたのでした。

数年後。
「コンピューターの対極に人の脳がある」
という言葉を何かで読みました。(何の本だったかは忘れました)

「あれ?人にそっくりなんじゃなかったの?」

すぐにそう思ったのですが、その理由を読んでまた納得します。(純朴?)
「人は突然思ってもみない事を思い出す。忘れてはいけないと思う事を忘れる。
 なぜか全く関係のない出来事をつないでアイデアを生み、または誤解する、
 それが人の脳である」
とか、そんなふうなことでした。

なるほど。たしかに。
いくら人工知能が学習するといっても、「なぜか関係のないものをつなぐ」ことを
「学習」なんて出来ないでしょうから、まだまだ機械は機械のままかもしれませんね。

ちなみに最近のパソコンって「デュアル・コア」なんていって、
アタマが二つ入ってる(?)ってこと?
船頭さんが二人。
ケンカしたりして。
  


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2007年09月18日

円形の舞台

振付家マース・カニングハムは
「宇宙においては一つの固定された点というものはない」
というアインシュタインの言葉を知って、それをダンスに取り入れたといいます。

岡崎乾二郎によるマース・カニングハムへのインタビューの中で語られているのですが、
「オーシャン」という作品にはそういった考えが一貫して使われているといいます。

カントが、左と右の差異こそが空間が主体的かつ先験的な形式であることを
証しているとするのに対し、逆にマース・カニングハムは、
一つの固定された点を要請してしまわないように、
ダンサーには「左右の区別はない」と語っていたとか、
そんなふうなことが岡崎乾二郎による短い補足文章で語られていました。

円形の舞台で、あらゆるところから見られることを想定した、
固定された軸のない、緻密な振り付けによるこの作品、
どんなものか観てみたいと思いませんか?

1998年、新潟市民芸術文化会館で行われた様ですけど、観た人います?

インタビューでは、
「まだ「悪い席だった」なんてお客さんが文句を言う声を聞いていない」
なんて素敵なコメントもありました(笑)。

(白川の流れ)
  


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2007年09月17日

ハチやアリ

「集団行動をとるような昆虫(ハチやアリ)は、一枚岩にならないために、
 必ず数パーセントの別働隊が存在するように、遺伝子的にプログラムされている」

このセンテンス、
「翼賛体制的に一枚岩になった体制は、短期的には非常に強力ですけれど、
 長期的には、戦略の誤りを修正できないがゆえに、没落のはじまりになりがち」
(「アメリカン・ディストピア」春秋社)
という文脈の中で、対比的に持ち出されたたとえ話。

ハチやアリが、そんなふうなことを「考え」ないでしょうけど(笑)、
ホントなら凄いですね。

同じ理由で公安9課にはトグサがいる。
(この一行、あまり気にしないで下さい。)

つまり、みんな同じ方向を向いてたら、なんにも判断できなくなるよってことですね。
でもこれを「役割分担」するってのも実行力なさそう。
かといって、自覚できりゃやってるわい!の感もありますね。

お、またグルグルしてます。
最近多いな。いかんいかん。

(このクジラ、良くない?)


  


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2007年09月16日

カプチョ

イタメシ屋さんの「カプリチョーザ」のこと、「カプチョ」って言います?

私はあそこの「トマトとニンニク」のスパゲッティーが大好きで、
今日、美術館へ行った帰りに食べたのですが、「カプチョ」って初めて知りました。
(え?言わない?言うの?・・・え?これってやっぱりおじさん?)

で、久しぶりの美術館だったわけですが、
京都国立近代美術館「麻田浩 展 没後10年 心の原風景を求めて」という企画展。

私は絵を観に行っても、そこに展示されている略歴や解説をほとんど読まないので、
正確なことは言えないのですが、初期の作品はとってもよかった。
迫るものがあった。病的な想いを広々と描いていると感じた。
こう書いてもなんだかやっぱり言葉にできない部分がありますがとにかく、
この絵を観れてよかったと思いました。
逆に、初期の作品以外は、残念としか言いようがない。
(こちらの方が評価が高い様ですが。)

意識されているか、無意識なのか、自分の持つフレームの中に集中しすぎて、
ただただ苦しいという痛みしか見えない。
それが「抜け出る」とか「溢れる」とか「超える」といったところの手前で終わって
いる様な感じ。もしくは、そのフレームがもっと大きなものであったなら、
もっとよかったのではないか?
そんなふうなことを感じました。

観賞後、三条まで歩き、「カプチョ」で「トマトとニンニク」を食べながら、
妻と先ほど観た絵について、あーだこうだとおしゃべりした一日なのでした。
(お、なんかブログっぽくなってきたなぁ)

(ちなみにこの企画展、明日17日までです。)
  


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2007年09月15日

その後は?

ペプシNEXって飲んでみました?
ゼロカロリーでおいしいってCMやってますね。
フクヤマ、ツマブキ、サワジリエリカ。
対コカ・コーラ総力戦って感じですけど、私はもっぱらビールですので飲んでません。

ペプシとコカ・コーラの味の違いも、比べたことがないのでわかりませんが、
ウソかホントか、こんなこと知ってます?

「1リットルのコーラをつくるためには9リットルの水が必要」

けっこう贅沢品ですね。
日本では水が「タダ」なんていわれてますが、水が貴重な国ではありえない話かも。

その昔の1993年、国外退去を命じられていたコカ・コーラがインドに再上陸しました。
自前で井戸を掘り、大量に水をくみ上げ、水位が極端に下がり、住民用の井戸が枯渇。
生活に困る村は事業免許を取り上げますが、州政府はコカ・コーラを保護。
その間も廃棄物で水質は汚染され続けます。
結局、2004年2月17日、州知事はついにコカ・コーラ社に対し工場閉鎖を命じます。
(ル・モンド・ディプロマティーク「コーラ工場と闘うインドの女性たち」)

まぁここまではよくある話。

でも「その後」のインドのこの村はどうなったんでしょうか。
そんなふうなことを想像すると、悲惨ですね。

「コカ・コーラはひどい、明日からはペプシにするぞ」なんて思ったあなた、
この時インドにできた90カ所ある工場の内、52カ所がコカ・コーラ、
残りの38カ所がペプシとのこと。

味の違いぐらい微妙な話ですね。

(でもたまーに飲みたくなるんですよね。どっちとは言いませんけど。)
  


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2007年09月15日

お詫び

昨日の「日本語版CNNの記事」のリンクが切れていました。
先ほど修正して確認いたしました。

せっかくクリックしたのに!という方、お許しを!
ごめんなさい!

合わせてお知らせを一つ。
2007年09月19日(水)AM3:00 ~ AM5:00の間、
メンテナンスのため、ブログが見れなくなるそうです。
ご了承下さい。  


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2007年09月14日

減ってる!

『「国際キログラム原器」が謎の減量50マイクログラム』
(CNN/AP)

この見出しを見て思わず記事にしてしまいました。
なんかわくわくしませんか?

日本語版CNNの記事によるとパリ郊外で保管されている1キログラムの標準器が
なぜか50マイクログラムだけ「軽く」なってるとのこと。
また、同時に作られた複製品には変化がない。

この標準器、真空状態にした二重の気密容器中で保管されているといいますから、
これが本当なら、プラチナとイリジウム合金の分銅に一体何が?

まぁ50マイクログラムなんて関係ないよ、と言われれば確かにそうですけど、
真空中に金属を保管してたらいつの間にか減っていたなんて、
ちょっと怖くないですか?

でもどうやってこの50マイクログラムを量るんでしょう?
量り間違いじゃないの?
量る機械の方が壊れてたりして。
・・・んなわけないか。
じゃあ、ドッキリだったりして。

こうやってちゃかすぐらいしか出来ないなら書かなきゃいいんですけど(笑)、
質量の基準を、ケイ素を用いた原子質量標準にする話があるとか、
そんなふうなことも出ていました。日本語版CNNのその記事

「基準」や「標準」なんてもろいものかもしれませんねぇ。

(逆光に佇むうるめ。猫には関係ない?)
  


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2007年09月13日

ポスター

“A RELAXED MAN IS NOT NECESSARILY A BETTER MAN”
(ざっくばらんな人が必ずしもより良い人であるとは限らない)

ジェニー・ホルツァーの作品「自明の理(Truisms)」の中にあるセンテンスです。
1970年代の後半、こんな感じのセンテンス約80を一枚のポスターにして、
マンハッタンの各所に貼り出したそうです。

道行く人はどんな風にその作品を観たのでしょうか?

たまに日本で見かけるのが「世界が平和でありますように」というプレート。
広告かなと思って何気に見ると「なんでここにこんなものが?」と
不思議な感じになります。

まぁあれとはまったく比べられないのですが(笑)、
このジェニー・ホルツァーという人、テキストを使ったアーティストなんですね。
広告や落書きに混じって、ポスターや電光掲示板として作品を出し、
ゆえにその「場所」も作品の構成要素になると言われてます。

本人はこの作品を
「私は人々に、どこからその言葉が来たのか不思議に思ってもらいたかった」
とか、そんなふうなことも語っているそうです。
(「表象」01「ジェニー・ホルツァーの80年代」より)

この逸話が出ていた論文の主旨からいくと、
こんな風に「センテンスだけ」を紹介する事自体、非難されそうですけど、
論文のサブタイトルは「作品/空間の変容」。

作品が出現した場所(空間)もさることながら、作品が「作り出した」空間が
あったことがわかります。

作品一つで空間をつくるアーティスト。
じゃあ「建築は?」って?

“FAKE OR REAL INDIFFERENCE IS A POWERFUL PERSONAL WEAPON”
(無関心のふりあるいは本当の無関心は個人にとって強力な武器である)

なんちゃって。
負けてませんよ、「建築」だって。

(上記2つの英文の訳は先の論文の孫引きです)
  


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2007年09月12日

クペ

「クペというパはバレエの歴史と同等に古い」
(「美学」217号『「クペ」から見たバレエ史』より)

バレエをされている方は「だから?」、
されていない方は「何の話?」といった反応が期待出来そうですね。

クペとは、いわば一つのステップの名前で、
たくさんあるステップ(というか、型?)の総称をパ(pas)といいます。
(バレエをされてる方、この解説で許していただけます?)
具体的にクペとは、その場で軸足を交換するステップで、
動きから動きへの繋ぎ役。

「パとパの間にクペというパがある」

という文章が成立するのですが、なんだか呪文みたいですね。

17世紀前半にクラシック・バレエの原型が生まれたといいます。
今では繋ぎ役というか、より華やかなパに仕える「接続詞」という、地味なクペですが、
当時からすでにクペは存在して、もっとも重要なパの一つであったとか、
そんなふうなことが先ほどの本に書かれています。

で、このクペ。
バレエ史400年の間には、生まれては消えていくパがあったにもかかわらず、
今まで存続しつづけている。しかも、今のものと17世紀のものとは、
ぜんぜん形が違い、意味も「接続詞」というより「息継ぎ」であったとのこと。
ただクペという概念、つまり、「切る」という概念は変わっていない。

「切る」という概念がバレエにとって不可欠だからこそ、
形を変えながらも存続しているということらしいのですが、
なんだかおもしろいですね。

「切る」という概念は変わらないものの、時代によって「意味」も「形」も違う。

これって何かにあてはまりそうなんですけど、
なんだっけなぁ。
  


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