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2007年10月31日

都市の抹殺

2002年3月、国際作家議会という団体がパレスチナとイスラエルを訪れました。

作家が団体で、そんなところへ何をしに行ったのか?

実はこの国際作家議会、
言論と表現の自由を守るために、政治弾圧やテロの危難に遭っている作家を
迎え入れる避難都市ネットワークを作るべく創設されたのだそうです。

この時の目的は、詩人マフムード・ダルウィーシュをはじめとする
パレスチナの作家の孤立を打破すること。
日本からは鵜飼哲氏が同行されています。
(ル・モンド・ディプロマティーク 「パレスチナ、領土の廃絶」より)

具体的にはどんなことをするんでしょうね?
「作家の孤立を打破」って、どうやるんでしょうか。

そのあたりがいまいちよくわからないのですが、
創設者クリスティアン・サルモンはこの時の報告書の中で語ります。

「イスラエル人は数十年の間に、キブツというユートピア(理想の場所)を忘れ、
 入植地というアトピア(ありえない場所)へとはまり込んでいった」

なるほど深いたとえですね。
また、こんなことも。
屋根のない建物の残骸や、爆弾の跡、なぎ倒された木々が
見渡すかぎりの風景にあっては、単なる土木機械のブルトーザーにさえ
暴力を感じるとかそんなふうなことも報告されていました。

タイトルの「都市の抹殺」とは、ユーゴスラヴィア戦争当時、
建築家ボグダン・ボグダノヴィッチがバルカン諸都市の破壊を言い表した時の言葉。

この創設者の言葉は、まさにこの「抹殺された都市」の人たちに
どのように届くのでしょうか?
いやその前に、届くのかな?




  


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2007年10月30日

現地調査

昨日はお仕事で一日大阪でした。

木造3階建ての建物の改修工事で、まずは現況図を起こすための現地調査です。
1階と2階の内装はほぼ解体されており、構造がむき出しですが、
3階は以前、お住まいにされていたみたいで、それがそのままになっています。
家財は運び出された後の様で、がらんとしています。

その3階なんですが、ほとんどの窓が塞がれていて真っ暗。
電気も付かないので用意したサーチライトで照らしながら進みます。
今回のお話をいただいた方に立ち合っていただき、
二人でせまい廊下をライト1つで進むのですが、なんだかこわい。

真っ暗って、なんであんなにこわいんだろう?(笑)
いったん臆病風に吹かれると振り返ることもできない(ホントこわがり)。

で、早速部屋の大きさや、柱の位置やあらゆる寸法を実際に測っていくわけですが、
途中、1時間ほど、その同席していただいた方が別件で出て行かれ、私1人に。

こわかった。(笑)

暗い夜道や、山の中や、墓地なんかも全然平気なんですが、
そこに取り残された生活感が人の気配を感じさせて、それでこわいのでは?

せめて一度でもオーナーさんのお顔を拝見していれば、きっと違ったはず、
そんなふうなことを考えながらひたすら実測していたのでした。
  


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2007年10月27日

己に

「ある人間の姿形と、その人が芸術作品として作り出す形態の間には、
 親縁関係が存在する」
(「造形芸術への道」より、ヨハネス・イッテンの言葉)

ヨハネス・イッテンは創作と教育活動を通して、
直感的に描く生徒は、作品の中で、必然的にその生徒の本性を反映した仕方で言い表す、
といったことを述べていたようです。
イッテンはこれを主観的性格と呼びます。

これはある意味、己に囚われているといった見方も出来る様で、
それに対し、生徒には自分のタイプを意識した上で、
他のタイプに属する方法に習熟するようにしていたとか。

どうやったって作品と作者は切り離せない。
それなら自分という枠にとらわれることなかれ、ということでしょうか?
(きっとそういうことじゃない感じですが)なんとなくわかります。

模型を作ってデザインする際、自分とはまったく関係ない(あるのかもしれませんが)、
こうあるべきだといったある種の「正解」みたいなものがそこに「ある」ような感じで、
それを「探す」ように作成します。
まぁワタクシごとで、なおかつそれが関係あることなのかも疑わしいですが、
そんなふうなことが頭に浮かびました。

少し話がズレてるみたいなので、
イッテンの言葉をもう一つ紹介してもどしておきます(笑)。

「生徒は、自分が本当に体験できるものだけをテーマとしなければならない。
 さもないと、形作られたものはことごとく嘘になる。
 17歳の若者が、ありきたりのリンゴの静物を体験できるはずがない!
 そんなものは間違っている!」



  


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2007年10月26日

不思議

先日のこと、夕方5時ごろに電話がなりました。
出ると、「ホームページを見て電話しました」という構造設計の方。
お話を聞いてその方のHPをその場で開くと、
なんとも様々にご活躍されていて、これまた様々な賞をとられている。

なんでこんなえらい人がうちに電話を?
電話を切るまでこのセリフが頭の上にポカンと浮いていました。

その方、曰く、これからはこういった若い人達が21世紀をつくりまた、
今問題になっている建築/建設業界不信を払拭しなければならない、
そんなふうなことでした。
そして、生き残って下さい(そんな感じの励まし)の言葉をいただき、
恐縮しつつも、ありがとうございますとしかお返し出来ません。
こういう時ってうまく言葉が出ませんね。(私だけ?)

結構長い時間でしたが、それと気付かず、色んなお話しを聞くことができ、
電話を切ったあとはなぜか元気になっているという不思議な電話でした。

天の声?
まさにそんな感じ。
  


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2007年10月24日

モード

「ファッションという言葉がきらい。モードがすきだ。
 装いは×(バツ)、でも身なりはきらいじゃない」
(AXIS「紙短情長」鷲田清一 編より)

哲学者 鷲田清一によると、「ファッション」や「装い」という言葉には
どこか人に合わせるといったところがあって、それに対して、
「モード」や「身なり」には「私はわたし」「私の生き方」といった気構えを感じる、
そんなふうなことだそうです。

なるほど。
考えてもみませんでしたが、たしかにそんな感じしますね。
これに照らしてみると、ふだんお出かけする時の格好は、皆さんどちら?

ちょっと特殊ですけど、結婚式なんかだと、
男性は白のネクタイなんて決まり(?)がありますね。
あれはどうなんでしょうか?
「いや、みんなそうしてるし、そうするのが礼儀ですよ」でしたら、ファッション?
「いや、だれがなんと言おうとも、白のネクタイでなければ
 オレの祝福の気持ちが伝わらない」でしたら、モード?
「決まり」(マナー?)である以上どっちでもない?

まぁこうしてそれぞれ考えてみたら、
白のネクタイにモードの精神を込めるのはちょっと無理な気もしますが、
見た目が変わらない以上、気持ちの問題ということでしょうか?

ちなみに、デザイナー 山本耀司によると、
ブランド品を身にまとって安心している人は、
「モードともファッションとも言いません。風俗です」
だそうです。

  


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2007年10月23日

近日更新

うーん、ちょっと忙しくなると途端に更新が遅れてしまいます。
かたじけない。

私のホームページで、現在計画中となっている案件を近々更新する予定です。
ラフの模型をアップするつもりですが、
大きく変わったので別の建物みたいに見えると思います。
是非一度見てみて下さい。
更新したらこのブログでお知らせします。

今日もその打ち合わせだったのですが、
オーナーが今持っている家具の寸法に合わせてプランを調整したり、
細かな要望を取り入れたりといった段階です。

さて、そろそろ模型をもう一度作り直すぞ!

(うるめちゃん復活もお昼寝中)


  


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2007年10月22日

情報の内部

サイバースペースという概念が生まれる前までは、
メディア(例えばラジオやテレビ)は「遠くの情報を近くに引きよせる装置」でしたが、
サイバースペースの考え方はこれを逆転して、
人が情報空間内部に含まれる状態であると表現できる。
そんなふうなことが「サイバースペースは何故スペースと呼ばれるか」(東浩紀)という
連載に出ていました。(もう10年も前ですけど。)

「サイバースペースは、精神が純粋に生み出した空間へ
 肉体を文字どおり移し入れることである」

私はこの東浩紀という方の本が好きで、なんとなく思い出しては読み返したり
するのですが、今回もハッとするようなことが書かれていて、
また忘れないようにここに書いてみました。

興味のない方はきっと、まったく興味が湧かない話なんでしょうね。

情報が体の外部にある世界から、体が情報の内部にある世界へ。
怖いような、おもしろそうな。
ウィリアム・ギブスンが小説の中で初めて「サイバースペース」という語を
用いたということですが、それが1984年。
それから23年。
今はどこまでサイバースペースに近づいたのかなぁ。

  


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2007年10月20日

お祭り

てへ。
更新遅れてしまいました。

実は今日と明日、福王子祭りとやらで、我が家の前の通りに露店がならびます。
こんな感じ。

お向かいはクレープ屋さん。


左隣りは唐揚げ屋さん。


どちらも家の中から撮影したものです。
引っ越してきた当初はこのお祭りのことを知らず、
めちゃくちゃテンションが上がったものです。
2階の窓から露店や行き交う親子を眺めながらビールを飲む、
という特権的(?)なこの日を楽しみました。

この喜びを独り占めすまいと、明日は友人たちをお招きして、
お庭でバーベキューです。
といってもホントに小さなお祭りなんですけどね。
  


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2007年10月19日

災害

1755年、リスボン大地震の際、ルソーはヴォルテールに手紙を書いています。

今回の地震は、それがリスボンという都市に起きたから大災害となったのであり、
地震という自然現象そのものは災害ではない。

そんなふうなことが書かれていたそうです。
ルソーに言わせればリスボン大地震も人災ということですかね?

これは自然と人間をある意味別の(それぞれ独立した)ものと見ている訳ですが、
今は逆に、自然と人間を連続したものと見る方が主流なのかな?

「共生」という言葉が溢れているところを見ると、
自然は自然、人は人、お互い折り合いをつけようよ、という訳ですから
それぞれ独立したものとして捉えているということかなぁ、なんて思いますが、
雰囲気としてはそうでもなくて、
むしろ人=自然みたいな感じで「共生」が使われてますね。

私なんかは、
自然が相手なんだから「共生」は「強制」にしかならないけど「共生/強制」するしかない、
なんて思いますから、やっぱり自然と人を別のものとして見ているんでしょうね。

逆に、自然と人間が「連続的な関係」の上での共生というのをイメージすると、
アフリカの古代民族やアボリジニが浮かびます。
でもあそこまで素朴な生活には戻れませんよね。

ルソーは言います。
「私たちの言うがままに世界の秩序は変えられなければならないというのか。
 私たちの法に自然が従わなければならないのか。
 私たちが都市を建設した場所では地震を起こすことを禁じるというのか。」

  


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2007年10月18日

自然の値段

もうずいぶんと前ですが、メリーランド大学環境経済研究所の
ロバート・コスタンザという教授が、自然に値段をつけました。

この大切な自然に値段など何するものぞ!
という方もおられるとは思いますが、まあまあ、そこはちょっとおさえていただいて。

で、どういうことかと言うと、
生態系が行う様々な作用を「サービス」ととらえ、
それを人間が代替するといくらかかるのか?というもの。

結果は、33兆3000億ドル。

って言われても額が大きくてなんのこっちゃって感じですね。
これは地球上の全ての国のGNPのほぼ2倍だそうです。
多いのかな?
少ないのかな?

「サービス」には、空気の浄化、老廃物の分解、気象の安定や、
沿岸の浸食防止なんかも含まれているそうです。
(「自然の値段」港千尋 より)

まぁ、かなりアバウトな計算なんでしょうけど、
ばくぜんと「自然が大切」と叫んでみるよりかはいいじゃない、
なんてそんなふうなことを思ってしまいました。

あ、ちなみにこれ、あくまで「サービス料」ですよ。
木や動物や土壌本体の価格は含まれておりません。

それこそ「値段はつけられません」ってね。
  


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2007年10月17日

ビルマ

「ミャンマー軍事政権は反軍政デモを鎮圧した際に2927人を拘束し、
 500人前後を依然拘留していることを正式に認めた」(CNN/AP)

日本人ジャーナリストが殺害されたことに関するテレビはよくやってますね。
でも、ミャンマーと周辺国の関係についての報道はあまり聞きません。
(それほどアンテナのばしてる訳でもないのですが・・・)

国連非難決議が中国とロシアの反対で採択されなかったのは、
よくあることと言えば、よくあること。
中国にしてみれば、ミャンマーを通ってインド洋につながる訳ですから、
軍事政権だろうがなんだろうが仲良くする。
ロシアは軍事政権に戦闘機を売っている。

欧米は非難していますが、どこまで本気かわからない。
欧米の企業はミャンマーの天然ガスパイプライン建設にお金をつぎ込んでいる。
軍事政権だろうと、それを無駄にしてまでは介入しない。

日本も韓国とならんで天然資源をねらっている。

結局、軍事政権を支えているのは周辺国という一面もあるみたいですね。
そういわれると、軍事政権に対する周辺国の態度がシャキッとしないのも
なんとなくわかりますね。

さて、「ミャンマー」とは今の軍事政権がつけた国名。
もちろん国際的に認められています。
一方、今も軟禁状態のアウンサンスーチーさんにしてみれば国名は「ビルマ」。

その国をなんと呼ぶかで、その国に対する姿勢も見えるとか、
そんなふうなことらしいですよ。

(なんとなくネコの写真をやめてみました)
  


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2007年10月16日

性善説

「宗教や民族の問題は、悲劇を生む原因ではなく結果である」
(「豊かで複雑な、僕たちのこの世界」より)

聞いたことありますか?
私はこの本に出てくるまで聞いたことがありませんでした。

宗教や民族が原因で争いが起こるのではなく、
原因はもっと別のところにあって、
争った結果、宗教や民族の違いというところへ行き着く。
(あるいはそうさせられている)
そんな考え方ですかね。

うーん、なんとなくイメージは出来ますね。
でも何事もなければ本来対立はしないはずだ、
というほど単純でもないような気がしないでもない。
こういうの「性善説」っていうんでしたっけ?(あれ?違うかな?)

性善説:人の本性は基本的に善である。

なんだかちょっとホントかなぁ、
私はそんなふうなことを思ってしまうのですが、皆さんはどうですか?

仮にそうだとしても、
自分が正しいと思う力でも悲劇は起きるのでは?  


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2007年10月15日

プッチン

昨日の夜、久しぶりに妻と山科の実家へ寄りました。
ちょうど姉が一時帰国しているもんですから、
皆でそろって夕飯を食べようというものです。

ぺちゃらくちゃらとしゃべりながら夕飯をすませ、
食後にプッチンプリンを食べようということに。

このプッチンプリン、35周年とやらで、今3個パックが復活して販売されています。
今まではビッグサイズしか出てなくて、
ちょっと大きすぎるので食べたくても敬遠していました。
(皆さんの中にもそんな人がいるはず!)
そこへいくとこの「ふつう」のサイズはちょうどいい。
なんといってもなつかしい。

しかしなつかしいだけじゃない。
ちゃんとプッチンのところの形状が改良されていて、プッチンしやすい。
それでいて自転車のかごに入れて持って帰る時の振動でも折れないようになっているとか、
そんなふうなことらしいです。

で、一家5人の前に、小皿の上に容器をうつぶせにしたプッチンプリンが並びました。
後は各自、プッチンするだけの、いわゆるスタンバイ状態。
すると父が、
「なんやこれ。なんでうつぶせなんや?」
「え?お父さん、プッチンプリン知らんの?」
「いや、プッチンプリンは知ってる。でもこれをどうするんや?」
すると姉が、
「これはな、こうしてな・・・」
とプッチン。
「あら!また、なんと!ほんでプッチンプリンていうのか!」

あんなに驚いた父を見るのは久しぶりでした。
働きづくめの父が定年をむかえて見つけた大きな感動なのでした(笑)。

それにしてもこの復刻版。
昔より若干、やらかくなっているような。
  


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2007年10月14日

普遍の法則

1916年、重病になったアインシュタインに妻が聞いた。
「死ぬのは怖いですか?」

これに対しアインシュタインは、

自分はあらゆる生き物との連帯感をもっている。
無限の生成の中にある特定の人生がいつ始まるとか終わるとかがわかっても、
自分にとってはどうでもいい。

そんなふうなことを答えたそうです。
(イリヤ・プリゴジン「科学、理念、情念」より)

怖いとか怖くないとか主観的なことは、普遍の法則に比べればどうでもいい。

まさに宇宙の法則を探求したアインシュタイン。
法則の普遍性を個別的存在より上に置く思想が出ているわけですが、
でもそこにこそ自分を見ていたかのようでもあります。

アインシュタインの「宇宙は定常である」という、のちに間違いとわかる理論に、
「宇宙くらいは定常であってほしい」なんて悲しい願いを込めていたのでは?
なんて思うのは私だけでしょうか?

宇宙は今も膨張(進化)している。
よりどころとなる法則は進化を示していたんですね。  


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2007年10月13日

ダヴィンチ

生物学者 ジェイコブ・ブロノフスキーによると、
人類の科学的な知恵の原点は、原始時代、野獣を確実に仕留める石のやじりで、
人類の芸術的な意識の原点は、その野獣を仕留めるために、洞窟の壁に描いたイメージ、
だということです。

科学も芸術も、原点は「生存」のための知恵であるということでしょうか?

一方で、こんな考え方もあります。
「科学も芸術も、18世紀から19世紀にかけて生まれてきた概念である」
どういうことか?

それまでは音楽も絵画も「芸術」ではなかった。
画家は「芸術家」ではなく、「職人」とよばれていたし、
科学者と呼ばれるものが社会の中で明確化するのもこの時期であると。

なるほどそれなら、15世紀に活躍したレオナルド・ダ・ヴィンチのことを
芸術家とも科学者とも呼ばず、なんと呼べばいいのか?
そんなふうなことも言われそうなわけですが、

でもとにかく、この説でいけば、芸儒家とか科学者という言い方自体、
その活動をひとりの作家が担うという意味なわけですから、
科学も芸術も近代的なものなんですね。

原始時代から近代まで。
どちらがどうとは言えませんが、
「生存のための知恵」が通る、シンプルな集団社会から、
「ひとりの作家が担う」という、個人の複雑な社会へと、
そんな流れも見えますね。
  


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2007年10月12日

GUI

マウスでアイコンをクリック。
このブログをみている方は、そんな動作を今さら意識しませんよね。

いわゆる“GUI”(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)。
パソコンに命令する動作を直感的に出来るように、
人とコンピューターをつなぐ仕掛け。
昔はパソコン=オタクでしたが、
このおかげで誰にでも(?)パソコンが身近なものになりました。

人とパソコンという全く別の世界を「つなぐ」インターフェース研究の世界では、
この「マウスでアイコンをクリック」ですら、
人を機械に合わせた動作だといいます。
そこでは、もっと「自然な」「人らしい」動作で、
コンピューターによる支援を受けられるようにする研究が進められています。

Tシャツ自体が特殊な線で編まれていて、
つねに着ている人の心拍、体温、歩行スピードなどをデジタルデータとして活用する、
なんて話も聞きますね。

一方医学会では、外科手術によって、切断された人の神経と脳を直接電極でつなぎ、
腕が動くようになるなんてことがすでに成功しています。
その人の頭部のレントゲン写真を見ると、
本当に頭の中に電線のようなものが写っているから驚きです。

これらがいつかは融合して、
なんだか想像もつかない世界が来るのかなぁなんて、
そんなふうなことを思うのですが、ユビキタスなんて考え方も、
これに一役かいそうですね。

Ubiquitous(ユビキタス):ラテン語で「いつでも、どこでも」の意。

問題は、「いつでも、どこでも」の後に来る言葉ですね。
いつでも、どこでも「監視」になったりして。
  


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2007年10月11日

ゴジラ

昭和29年11月、シリーズ第1作目の「ゴジラ」が公開されました。

あれ?ゴジラってヤンキーズの松井のことじゃないのって?
うーん、今はそっちの方がメジャーかもしれませんね。

欧米でも高い評価をうけた、撮影用のゴジラの「着ぐるみ」。
この時初めて製作されたゴジラの着ぐるみは、
胴体を菊人形師が、顔を彫刻家が作ったそうです。

今はそれ用の造型会社がありまして、そこでトータルに製作されます。
こう書くとなんだか簡単に出来てしまうような感じですが、
1999年公開の「ゴジラ2000 ミレニアム」では、
たった3体の着ぐるみのために、ゴジラの「目」の試作品を
100個も作ったと言われています。
日本生まれのゴジラですから、こだわりなんですね。

けれど、もともとのこだわりは「核兵器」。
昭和29年3月1日、ビキニ島の核実験によっておきた第五福竜丸事件をきっかけに
ゴジラは製作され、その約8ヶ月後、第1作目が公開されたのでした。

ヤンキーズのゴジラこと松井さん、
アメリカで「ホウシャノウ」ならぬ「ホームラン」をバンバン打って下さいね。

(ガォー)
  


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2007年10月10日

オフ会

昨日初めてオフ会というものに参加させていただきました。
「京つうの宴」です。

まんざら亭先斗町店のお料理が、ばっちりおいしかったのはもちろんなのですが、
「おぉ、これがオフ会というものか」
という感慨の方も負けずに深いものでした。

参加するにあたり、よせばいいのに「オフ会」って何だろうと
考えたりもしていたのですが、
「バラバラに散らばった個人と、固まった町内会の中間点」
ぐらいの感じなのではと思い、参加しました。

結果は、実におもしろかったです。
(って、言われなくても知ってるって?)

もともといつも拝読させていただいているブロガーさんの集まりということもあり、
また、皆さんお話の引出しが多く、充実した飲み会でした。

参加する前と後で変化があったのは、ブロガーさんにコメントを入れさせていただく時、
その人の顔が浮かぶようになったこと。
顔を合わせるだけで距離って縮まるんだなぁと、そんなふうなことを思います。
いや、当たり前と言えば、そうなんですけど。

匿名と実名の中間点、オフ会。
なるほど世の中にはまだまだ面白い世界があるんですね。
  


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2007年10月09日

羅生門

どんな話だったのかまったく忘れていたのですが、
先日「羅生門」(芥川龍之介 新潮文庫)を読みました。
この話、教科書にも出てましたっけ?

で、なんで読んだかといいますと、
ジム・ジャームッシュ監督/脚本の映画、「ゴースト・ドッグ」にこの本が出ていまして、
映画を久しぶりに観直したのを期に、ついでに読んでみたのでした。

ゴースト・ドッグとはフォレスト・ウィテカー演じる殺し屋。
依頼された仕事をしにいくと、現場に依頼人(マフィア)のボスの娘が居合わせます。
娘のことは知らないゴースト・ドッグでしたが、娘は殺さず、
その場で成り行き上、娘から一冊の本を受け取ります。

その本が「羅生門」。
もちろん英訳版です。

英訳版では「羅生門」に出てくる「下人(げにん)」とか「聖柄(ひじりづか)」が
どんなふうに訳されているのだろうかと、そんなふうなことを思うのですが、
本(=書かれたもの)と、その本とはある意味無関係に起こる出来事(=消えていくもの)との
奇妙な関係がせつなく描かれています。

この映画を観たことのある方なら、
なぜ「葉隠(はがくれ)」を読まないのか?と思うことでしょう。
(「葉隠」はゴースト・ドッグの愛読書という設定です)
むしろ武士道精神をまとめたこの本こそがテーマなのかもしれませんが、
いやいや、これを今、もう一度読み直すほど難しい作業はないんじゃないでしょうか?

(でも近いうちにこのブログでちょこっと触ってみますね。)
  


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2007年10月09日

無事に帰還

「アポロ13へ、こちらヒューストン。必ずお前たちを地球へ連れ戻す。」

エド・ハリスにこんなセリフがあったかどうか忘れましたが、
昨日からのMacアップグレード作業は終止こんな感じでした。

というのも、昨日の作業は全て、オーストラリアにいる「マスター・オブ・Mac」こと
ミスターDとのビデオチャット交信によって行われました。
私の傍らには全体の作業を把握した、通訳兼任のシスターMが、作業手順をひとつづつ、
確認しながら私に指示を与えます。
(そうです、私はただの作業員です!)

「めちゃくちゃ固いけど、この基盤はホントにここに刺さるのか?」
「待って、ミスターDにもう一度場所を確認するわ」
小型カメラに基盤を近づけ、しばしオーストラリアと英語にてやりとり。
「OK。あっている。そういうものらしいわ」

相手の顔を見ながら会話するだけで、一気に地球を小さくさせるものだなと、
そんなふうなことを感じずにはいられなかったわけですが、
最後の段階でどうしても増設したハードディスクを、新しく積み替えたCPUが認識しない。
すぐさまミスターDは私たちに指示を与え、考えられる原因をひとつづつ潰していく。

「本当に地球へ帰れるのだろうか」

しかしミスターDは一つの可能性を見つけ出すことに成功。
結局それは、一個1円にも満たない、米粒くらいの小さな部品を、
コネクターに差すというもの。
これが決め手となり、ハードディスクが無事認識され、
Mac OS Xという最新のOSのが、約15年も前のパソコンから立ち上がったのでした。

ホントにありがとう、ミスターD。
そして感動しました。

(分解したところ)


(CPUや基盤の取り替え作業中。眠っているのではありません)


(問題のハード。そして完成)

  


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