京つう

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2007年11月16日

最後の庭

「世界が静止して人間がいなくなったら、
 この花を植えたのが、花なのか、鳥なのか、だれにもわからない」
(「メディウムとしての庭」伊藤俊治より、デレク・ジャーマンの言葉)

デレク・ジャーマンは、同性愛、エイズ、暴力などをテーマとする映画監督。

最後の映画として「BLUE」が有名なようですが、本当の遺作は映画ではなく、
原子力発電所に面した漁師小屋のかたわらにつくりあげた庭だそうです。

ジャーマン自身もエイズで亡くなってしまうのですが、
HIV感染が判明した1986年から8年間という長い時間をかけて庭をつくります。

原子力発電所からの放射能を蓄積した植物や、
核で汚染された荒地を丹念に手入れし、
いつくしみ、新しい花を移植し、
流木や拾い集めた廃品でオブジェを配して、
息を飲むほど美しい庭をつくりあげた、
そんなふうなことでした。

どんなことを考えていたんでしょうね。

死のまぎわ、病院から抜け出し、土や石を入れかえ、
水をまき、種をまき、安心したように病院へ帰っていったそうです。

「世界が静止して人間がいなくなったら、
 この花を植えたのが、花なのか、鳥なのか、だれにもわからない」

この言葉に込められたものが、
深い悲しみだったのか、それとも、ひとすじの光だったのか。
うまく考えがまとまりません。




Posted by +0 atelier at 18:30│Comments(2)
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デレク・ジャーマンの庭【リトル・キッズ・ヴァイブレーション】at 2007年11月21日 01:51
この記事へのコメント
花があるかぎり世界は静止しないし
できないと思います。
人間の活動が静止 は ありですね。
でも、有機体があれば世界は止まれません。
Posted by 諏訪 幸子 at 2007年11月16日 23:11
諏訪 幸子 さま、こんにちは。
素敵なコメント、ありがとうございます。

「世界」から人間を取り除いても、「世界」は困らない。

同感です。
この「世界」の有機体の中に、人間は含まれていないのでしょうね。

記事の中で書き出した引用、
「世界が静止して人間がいなくなったら、
 この花を植えたのが、花なのか、鳥なのか、だれにもわからない」
の中には単純な矛盾があります。

「だれにもわからない」とありますが、
そもそもそれを考えるはずの人間が「いない」はずですから、
正確には、そこは、「その問いかけは消えてしまう」と言うべきです。

しかしジャーマンはそこを、「だれにもわからない」といいます。

なぜか。
「問いかけが消えてしまう」ということは、
花や鳥を「世界」と「認識」する存在がいないということであり、
それは「世界」がなくなることと同義です。

そんなことは認めない。
それに抵抗しようとする意志があったのではないか?
「生」への強い思いがあったのではないか?

死に直面し、確実に消えてしまう世界(もしくは「私の」世界)。
そして「私のいない世界」、本来世界と呼ぶはずのない「世界」を
そっと花や鳥に手渡したのではないか。

「だれにも」とは人ではなく、人以外の有機体だった。
そして花や鳥はそれを知るよしもない。
「だれにも」「わからない」。
けれど世界は止まらない。

浮かんだままに書いてみました。
ちょっと悲しい文?
てへ。
いただいたコメントの返事になってますように。

これにこりずにまたコメントお待ちしております。
ではでは。
Posted by +0 atelier+0 atelier at 2007年11月17日 12:38
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